the trio world tour 1996
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An excerpt on '1996' from 'Ronza' magazine written by Aquirax Asada.



世紀末の無言歌――坂本龍一の『1996』            浅田 彰



夏のはじめ、コペンハ−ゲンを訪れたついでに、近くのロスキレで開かれる坂本龍一のコンサ−トを聴きに行くことにした。ロスキレといえばデンマ−ク王家の菩提寺もある静かな古都。坂本龍一のピアノにエヴァ−トン・ネルソンのヴァイオリンとジャック・モ−レンバウムのチェロを加えた古典的なトリオの演奏を聴くには理想的な環境ではないか。

というのは、しかし、私の無知ゆえのまったくの見込み違いだった。ロスキレ・フェスティヴァルというのは、ビ−ル瓶のケ−スをかついで集まったヴァイキングの子孫たちが、連日連夜、八つもの野外ステ−ジでロックに酔いしれるという、北方のウッドストックともいうべき催しだったのである(ちなみにデンマ−クではリサイクルを徹底させるため缶ビ−ルは売っていない)。この環境に、アコ−スティックなピアノ・トリオというのは、いかにも不似合いではないか。

事実、最初のうちは聴衆もとまどったらしく、弦のミニマルな音形にのせてピアノが甘美なメロディを奏でる「美貌の青空」の繊細きわまる演奏も、ややもすれば雑音にかき消されそうになる。チェリストが後で「荒馬を乗りこなすようだった」と述懐したクリティカルな瞬間。だが、コンサ−トが進むにつれて、坂本龍一はいわば純粋な美の手綱だけをもって荒馬をとらえ、見事に乗りこなしてみせたのである。あの「戦場のメリ−・クリスマス」の優雅にして鋭利な演奏は、ヒッピ−世代の子供たちの心をも確実にとらえた。レ−ニンの演説の録音が流れる傍らで、一定の音形が冷徹に反復され、やがて少しずつリズムを増減させながら一種のモワレ模様を描いていく「1919」さえ、真剣な関心と熱烈な喝采をもって迎えられた。こうして軌道に乗ったコンサ−トは、北国の曇り空を美しい放物線を描いて舞ったのである。

もとより、坂本龍一は最新のテクノロジ−を駆使した音楽を作り、さらには映像面まで含めた大規模なシステムに基づくステ−ジを展開してきた。だが、それと並行して、ここ数年、こうしたピアノ・トリオによるコンサ−トも続けてきたのだ。最近その成果が『1996』というCDにまとまった。私が聴いたコンサ−トは、その発表に際してのワ−ルド・ツア−の一環だったのである。

いま、旅から戻って、夜の静寂のなかでCDを聴きなおすとき、それが実に純度の高い美の結晶体であることにあらためて驚かされる。たしかにマシ−ンは目ざましい進化を遂げた。だが、鍵盤の前に座った人間というマシ−ンに比べると、それらはまだまだ粗雑なものでしかない。機械的なリズムでは考えられない微妙な遅れをともなって悠然とたゆたい、しかし要所々々では鋭い切弾力を見せるピアノ。それによって、しどけないまでに官能的でありながら高貴なまでに清潔な音楽が生まれるのだ。とくに「美貌の青空」の繊細さは、やはりこうして静かに聴かなければもったいない気がする。そしてまた、「シェルタリング・スカイ」や「嵐が丘」をはじめとする映画音楽の深く大きな歌。

そう、このCDでは、シンセサイザ−の類が使われていない一方で、坂本龍一がいわばスタ−の義務として歌ってみせることもない。にもかかわらず、インストゥルメンタルの曲がそのまま雄弁な無言歌となって聴く者に語りかけてくるのだ。そこには惜しげもなく歌が溢れている。そして、歌のひとつひとつに、世紀末的というほかない深いロマンティシズムが溢れているのだ。そこにわれわれは、われわれの世紀末を代表するミュ−ジシャンの姿を見る。

実際、この音楽は、ヴァイキングたちをも圧倒したように、世界中で大きな反響を呼んでいるという。世界を回ってきたこのトリオの演奏と、夏の終わりに日本で再会するのを、私は今から心待ちにしている。

(C)Aquirax Asada (「RONZA」9月号より)